【第9回】
~ 赤ちゃんと笑顔 ~
入選
古希の遠距離恋愛
東京都 会社員 69歳
今福岡に住んでいる下の娘は昨年の春妊娠が判り、出産のため十一月に里帰りした。
年が明けて成人の日、高齢の部ではあったが無事女の子を出産した。晴美と命名された。
それから三か月、家内の大はしゃぎとも思える子育て指南の下、順調な経過を辿った。正直私も心中小躍りする思いであった。三十数年前、二人の娘を授かった時には、仕事仕事でそんな感慨に浸った記憶はほとんど無い。しかし今度は全く様子が違う。泣いても眠っても乳首に吸い着いても、どれもこれもその仕草は理屈抜きに可愛いのだ。
そしてついに九州に帰る時が来た。宙を舞っていた視線も物を追うようになり、時折ピクピクと笑うような表情を浮かべる。
飛行場で最後に私の腕に抱いた時、確かに私を見詰めてニコーと笑顔を見せてくれた。
「あっ、私にお別れの挨拶をしてくれた!」
飛行機は親子と祖母を乗せて飛び去った。
それから半月ほど一人ぽっちの生活が続いた。不便と火の消えたような寂しさはもとよりだが、あの笑顔が目に焼きついて夜寝床に入ると涙が流れて止まらない。
毎夜そうしていると、その思いは遠い昔に一度味わったような記憶が蘇って来た。
そうだ、家内との婚約時代のあの気持ちだ。愛媛出身の家内はゴールインまでの一年ばかり実家に帰って準備をし、両親と名残を惜しんだのであった。今では忘れかけていたあの時と同じ種類の恋しい気持ちだ。
そんな事を思い起こすと、今家内をもう少し大切にしてやらないといけないと反省の気持ちが湧いて来る。一つの小さな生命の誕生の影響力は絶大だ。
ハルの面影に思い焦がれていると、やっと家内が帰宅し、又二人の生活が始まる。家内の携帯には毎日のようにハルの写真と成長の様子が送られて来る。それを見ながら二人で歓声を上げる。
老夫婦に欠落しがちだったコミュニケーションが復活する。一つの小さな生命は寛大だ。その会話の中から二人がこれから生きて行く張りと目標が生まれて来る。
七五三は何で祝ってやろうか?入学は見届けられるかな?ディズニーランドには一緒に行けるかな?それまでは健康に留意し、品行を正し、他人にはより優しくなり、一生懸命貯金をしよう。ああ小さな命の偉大さ。五月に入ると娘から、七月の連休を挟んで婿さんがヨーロッパに出張することが決まり、二人で寂しいので来てくれと言って来た。待ってましたとばかりに旅行会社に駆け出し、九州見物も兼ねて十日ほどの準備に取りかかる。指折り数えて待った日がやって来た。
福岡の娘のマンションに着くと門の前で母親に抱かれたハルが出迎えてくれた。
「ハルのおじいちゃん只今到着!」と感激の声を掛けると、伸長もぐんと伸びたハルは覚えていてくれたようにしっかりとした目線で私を見詰め、ニコーッと親愛の笑みを返してくれた。
ああ、あの夢にまで見た笑顔!
「この子ったら余所の人にお愛想が良いのよねえ」
と娘はしらっとして言った。
夫婦にとってはそれは楽しい時間、娘にとっては又と無い骨休めの時間は、あっという間に過ぎた。
「じゃあ、おばあちゃんとおじいちゃんは東京に帰りますからねえ。又会うまでわすれないでいてくだちゃいねえ」
という挨拶にハルは、キャッキャッと声を上げ、又最高のスマイルで見送ってくれた。
少し子供らしくなったハルの笑顔が再び瞼にインプリントされてしまった。
この分では、じじ馬鹿の遠距離恋愛は当分続きそうだ。