【第9回】
~ 赤ちゃんと笑顔 ~
入選
あの日から
千葉県 主婦 39歳
妊娠中に超音波写真で赤ちゃんの姿を見るのは多くの妊婦の楽しみだろう。私も写真を受け取った時は日に何度も何度も眺めたものだ。でも私が初めて我が子の姿を見たのはまだ妊娠前。不審に思われるかもしれないけれど本当にそうなのだ。
不妊治療の一つ、顕微授精という方法で授かった我が子。精子と卵子を受精させたものを私のお腹に戻す前、担当医に聞かれた。「受精卵を見たい?」と。頷いて技師の元で顕微鏡を覗くと、そこには分割された状態の受精卵があった。
今も鮮明に覚えている。
その時、強烈に「可愛くて愛おしい」と思ったのだ。
受精卵を可愛いと感じるなんて変かもしれないが、愛おしくて涙が出そうだった。「この卵をお腹に戻すのですよ」と説明してくれる担当医に「夫と私の面影がありますね」と笑顔で言って照れ隠しした。
その後無事に着床し念願の妊娠が確認されたときも、超音波写真を初めて見せられた時も、私は受精卵を思い浮かべて微笑んだ。
出産は急遽帝王切開となった。
麻酔が効いているから下半身に何の感覚も無い。
赤ん坊の泣き声が聞こえて来たときも自分に起きたこととはつゆ知らず、「近くの病室の妊婦さんが出産したのね。おめでたい」と思ったくらいだ。
先生や看護士さんに「おめでとう、元気な男の子よ」と言われ自分が出産したことを知ったという有様。しょっぱなからこんな頼りない母親で申し訳ない。
看護士さんに抱かれて私の枕元に来た小さな赤ん坊の顔や体を見つめてみた。先生や看護士さん、そして夫がニコニコしながら私の一言を待っている。何か言わないと場がしらけてしまうと思い、とりあえずニッコリ笑って「どうもこんにちは」と言ってみた。
溢れ出そうな想いは心の中で告げることにした。
ずっとあなたを知ってたんだよ。今この瞬間からじゃなく、ずっと前からあなたのことが大好きだった。私のお腹の中に入る前から、小さな小さな卵だったあの日から、私はあなたのことが大好きだった。
不器用な私にとって育児は想像していた以上に大変だが、「可愛くて愛おしい」と思う気持ちは受精卵を見たあの日から変わらない。あの日を思い出すと、今でも泣き笑いしたくなる。
妊娠が確認されたとき、超音波写真を見たとき、出産直後にぎこちなく挨拶したとき‥あの日以降の様々な笑顔は息子が私に与えてくれたもの。私も彼に恩返ししよう。明るい家庭を作って、彼の人生が笑顔に溢れたものになる手伝いをしよう。そしていつか彼が成長したらあの日のことを話して「ありがとう」と言おう。