【第9回】
~ 赤ちゃんと笑顔 ~
入選
笑顔咲く人生を
東京都 自営 43歳
娘が誕生し、一年と四ヵ月が経った。この間、私たち親子はいったいどれだけの笑顔に支えられ、助けられてきたのだろう。
子どもを授かることは、この上なくありがたいことだ。赤ちゃんとの二十四時間は、毎日を充実させてくれる比類なき時間である。そこにはいつも笑顔の花が咲いている。
十八年前、私たち夫婦の前に立ちはだかったのは、原因不明の不妊という大きな壁だった。運命を歎き、人の出産を羨み、自分を責めたこともあった。年齢的にも限界が近づき、完全に諦める前にできるだけのことはしたいと不妊治療の現場に踏み込んだ。
待ち受けていたのは、自然に逆らい、体に無理を強い、心身ともに疲労困憊という出口の見えない長いトンネル。耐えに耐えたが奏効せず、ついに体が悲鳴をあげた。
泣く泣く体を休める期間に入った二ヵ月後、我が子は突然やってきた。奇跡の自然妊娠。私は四十一歳になっていた。
高年初産妊婦となった私が直面したのはハイリスクの山という厳しい現実だった。妊娠はしたが即出産に結びつくわけではない。正常に産まれる確率は四割。心音が確認されたらとにかく予定日までもたせること。安定期はない。これが突き付けられた事実だった。
己の体力と運命にすがるしかない日々が過ぎてゆく。大きなお腹に限りなく赤に近い黄色信号が点るなか、出産当日を迎えた。
前日までの雨があがり、ぽかぽか優しい陽が注ぎ暖かい風が吹いたその日、娘は大きな産声をあげた。十ヵ月の間、ボロボロの母体から懸命に栄養を吸い取り、完成させた体を誇らしげにバタつかせ、ふやけた顔には笑みを浮かべ、元気に飛び出してきた。十八年かかって繋がった命。赤ちゃんとの暮らしがジェットコースターのごとく滑り出した。
妊娠イコール出産と信じていた私。出産がゴールだと思っていた私。無知だった。妊娠は奇跡、出産はスタートであった。
母親が高齢だと精神的に余裕があるといわれるが、恥ずかしいことにそんなもの微塵もない。四十二歳の私も母親一年生。初めて尽くしの不安な日々は、試行錯誤と一瞬たりとも気の抜けない緊張の連続だった。
これまでの月日を振り返るとき、私を支えてくれたのは側にいた人々の笑顔であった。
結婚当初、いきなり頭の上に落ちてきた大きな石を砕いてくれたのは両親だ。
「孫はまだか」
というようなことは一度も言ったことがない。私たち夫婦は、包み込むような親の笑顔に守られていた。ふたりの父は孫の顔を見ることなく他界してしまったが、いま娘が健康にすくすくと育っているのは父たちが天国で守ってくれているからと信じている。
妊娠経過を見守り、娘を取り上げた医師と助産師は、常に自信に満ちた頼もしい笑顔で健診と入院中のテンションを上げてくれた。
退院し、赤ちゃんと過ごす日々。体力が試され、重労働な育児にヘコみ気味な毎日だ。
ここで救いの手を差し延べてくれたのは見も知らぬ他人。彼らの無償の手助けだった。
「お母さん大変だね。がんばって」
スーパー、駅、電車の中、エレベーター、銀行…。通りすがりの人々は思いやり溢れる言葉とともに、笑顔を向けてくれた。
いま、娘と私の身近にあるのは、同じ立場でわかりあえる育児真っ只中の母親たちのフレンドリーな笑顔だ。公的ネットワークをもつ子育て支援スタッフの笑顔もまた心強い。
不妊の末、奇跡的に授かった娘が一歳を迎えるまでの長い年月、それは周囲の笑顔に支えられてこその十八年であった。
スタスタ歩く姿もサマになってきた娘。言葉も出てきた。日に日に豊かになる表情の中には、たくさんの笑顔が咲いている。
笑顔を通したコミュニケーションを大切にし、人の優しさに感謝する心を忘れず、笑顔咲く人生を娘と夫と歩んでいきたい。