【第8回】
~ 赤ちゃんとわたし ~
入選
いのちをつなぐ
埼玉県 会社員 35歳
午前二時。
眠りについた産院の廊下で、私はエレベータを待っている。
素足につっかけたスリッパのつま先をこすり合わせながら、なぜだかこれから恋人に会いに行くような高揚感に浸っていた。
まぶしすぎるダウンライトに照らされて、エレベータの扉が静かに開く。乗り込もうとすると、パタパタと音がして、もう一人、生まれたてのママが乗り込んできた。
どちらともなく、笑顔で顔を見合わせる。「なんだかそわそわしちゃいますね」「目が覚めて眠れなくて」そんな会話を交わしながら、傷をかばうように内股でそろそろと新生児室に向かう。
12月のある深夜、私はママになった。
新しい命が自分に宿っていると解ってから出産まで、本当に長かったし色々なことを考えた。嬉しさと共に湧き上がる不安。母という仕事が増えることに対しての意気込みと、もう好き勝手できないという喪失感、焦り。
夫と出会って結婚し、二人してひたすら仕事と遊びに邁進してきた数年間だったが、いつもどこかで「子供を持つということ」について考えている自分がいた。本当にこのままでいいのか。いや、子供がいたら出来ないことだってたくさんあるじゃないか。
夫と話し合い、子供のいる同僚たちに話を聞き、一つひとつ疑問を解消しながらようやく一歩を踏み出すことができた。年齢を重ねただけ、石橋をたたいて渡るようになっている自分にも驚いた。
でも。
LDRで最後に大きくいきみ、わが子の産声を聞いた瞬間に私は悟った。
私は、いのちをつないだ。
それは、私自身の欲求や理想なんてものを大きく超えた、祖母や母たちが自分の全てをかけて守り、慈しみ、生み出してくれたもの。そしていま、こんどは私が新しい「いのち」をこの世に送り出すことができた。
こうして、いのちはつながっていく。迷っていた過去の自分がとてもちっぽけに思えた。
出産の名残の筋肉痛に顔をしかめながら、それでも私は午前二時に起きる。新しいいのちに会いたくてたまらない。目をこすりながらメガネをかけ、そうっとベッドから起きだして新生児室に向かう。
真っ白な部屋、すっぴんの生まれたてママたちが並んで授乳している。深夜にもかかわらず、なんとも幸せな、あまずっぱい空気に満たされた部屋で私もわが子にお乳をあげる。
ふと周りを見渡すと、ママたちはみんな輝くように美しかった。
みんな、自分にしかできない素晴らしい仕事をやり遂げ、強くて美しい顔をしていた。
見下ろせば生まれたばかりの小さないのちが、まだよく見えない目を開けて私を見ている。おそるおそる頬に触れると、ゆっくりとまばたきをした。
そう、生きているんだ。
これから私と、生きていくんだ。
つないだいのち。どんな風に守っていこう。どんな風に支えていこう。
思わず、涙がつつーとこぼれ落ちた。
入院期間が終われば、私と娘は日常へと踏み出していく。
ドタバタな毎日に紛れても、いつかこの子が言葉を理解するようになったら、またここに小さないのちたちを見に連れて来よう。そして、素晴らしい家族のことや生まれた日のことを話してあげよう。
涙をふいて、小さな顔をじっと見つめて私は笑った。
だから忘れないように、ママはあの部屋でこんなことを考えていたよって、しっかりと記憶に焼き付けておくね。そう語りかけながら。