【第6回】
~ 赤ちゃんが教えてくれた喜び ~
入選
息子は恩師である
【一般部門】 茨城県 自営 66歳
現在ではかなり市民権を得ているが、今から40年以上も前には、風当たりが強かった。
大学三年生の時、クラッシック音楽が好きだった私は図書館主催の音楽ゼミナールを受講する事にした。毎週土曜日午後六時から九時まで、古典から現在まで、時にピアノを弾き、時にレコードを聞かせ、かなり高度な内容の講義がなされていた。10人の受講者の内、半数は昨年から受講している古参者なので、新参者の私には発言するチャンスが少なかった。
古参者のうちの一人に山田美奈子がいた。彼女は市役所に勤務している内気な女性で、発言する事はほとんど無く、隅の席で先生の講義をを熱心にメモしていた。
講義が終わり、家へ帰る途中、山田さんが前を歩いているのを見つけた。彼女に追いつき、思い切って声をかけた。
これが現在の妻、美奈子との出会いである。
美奈子は私よりも十四才年上であった。二人が愛し合うまでに時間はさほど要しなかった。
山のような障害を乗り越え、学校を卒業した10月に、駆け落ちするように二人の新婚生活が始まった。
三十七歳という妻の年令を考え、子供をつくる事にした。
学校出たての給料は安かった。彼女の貯金も目に見えて減っていった。
この経済状態で、子供が一人増えたら家計はやっていけない。
若さ故の無責任、自覚無さが自分にはあった。
病院で長男と面接した時、正直に言えば、さほど可愛いとは思わなかった。これからの生活を思うと気が重かった。
退院後、息子の入浴は、私の役目となった。自宅には風呂が無い。お湯を沸かし、たらいに水とお湯を混ぜ、どうにか自分の仕事をこなした。
会社での仕事、夜中に泣く長男のおしめ交換、妻と二人三脚で、仕事をこなしていった。一週間もすると、疲労感がどっと出てきた。
自分には育児は無理だと言う考えが脳裏を占拠し始めてきた。
何時ものように長男を入浴させていると、気持ちがよかったのだろうか、たらいの中で長男が眠ってしまった。気持ちよさそうに眠っている。その寝顔に見惚れてしまった。
父である自分を信頼し、両腕の中で眠る姿、手を通して感じられるやわらかな呼吸、自分の中で変化が起こった。大きなあくびをして、長男は目覚めた。じっと私の顔を見ている。
その目の美しさ、かわいらしさ。私の心に起きた心の変化をさらに強くしていった。にこっと息子が笑った。愛しい息子、身勝手かもしれないが、この瞬間から完全に私の心は変わった。父親へと変貌した。
夜中に起こされる息子の泣き声も苦にならなくなった。やすらかに寝ている自分の分身の顔をみていると、腹の底から力が湧いてくるのを感じた。息子の為なら何でも出来る。
心とは実に不思議なものである。ひどかった疲労感も何時の間にか消え去っていた。仕事であった入浴が楽しみに変った。
変な話であるが、息子のうんちまでがいとおしく感じられてきた。
一年後、会社を退職し、学習塾を開いた。学習塾は年々繁栄していった。どんな困難があっても、息子の顔を心に画くと、頭の中に解決策が生まれてくる。結婚十年後に、念願の家を購入する事が出来た。
決して、決して、思い過ごしでない。私の心を積極的に変化させたのは、あの入浴の時の息子の笑顔である。
息子に、妻に感謝している。親子三人、川の字になって眠ることの幸せ、人生の師である息子の小さな手を握り、寝顔を見る事はわたしにとって、どんなすばらしい書物より、どんなにすばらしいお話より、私に勇気を与えてくれる
息子よ、あなたは私の恩師である。
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42歳に成った息子が今年の夏休み、孫をつれてやってくる事になっている。高速バス停まで車を飛ばし、息子一家を出迎えに行く事を、一日千秋の思いで待っている。
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