【第6回】
~ 赤ちゃんが教えてくれた喜び ~
特別賞
「抱っこマジック」
【一般部門】 伊藤久恵 神奈川県 主婦 39歳
出産以来、私はひとつだけ魔法を使えるようになった。悲しい事もイヤな事も一瞬にして消してしまうすごい魔法だ。おまけにそれを使うのに特別なスキルも道具も要らない。必要なのは両手と愛情だけというお手軽さ。その魔法とは「抱っこ」である。
最初にこの魔法の威力を知ったのは息子が産声をあげた直後だった。19時間という難産だったせいもあり、産後すぐの私には目を開けて生まれたての我が子を見る気力もなく、ただぐったりとしていた。正直赤ん坊が生まれてきた喜びよりも、むしろ「やっと終わった、もう苦しまなくて済む…」という安堵感の方がはるかに大きかったのだ。そんな状況だったから、テレビの出産シーンでよく観るような感動の涙も当然出なかった。
ところが、である。実際我が子を自分の傍らに置いてもらい抱っこしていたら、たちまち気持ちが安らいでいくではないか。まだ生まれたばかりの息子を見てみると、彼は赤い顔をしながら手をグーに握り全身で泣いていた。なんて小さな頭なのだろう。なんて細い指なのだろう。なのにこんな大きな声で一生懸命泣いているなんて。赤ちゃんもがんばったんだなぁ。「やっと会えたね。待ってたよ」と小さな声でささやいた。いつのまにか涙を流しながら無意識に息子の頭をなでている自分がいた。あんなに痛い経験だったのに、出産時の苦しみだってチャラになってしまった。
それ以来、私は抱っこをする事で不思議なくらい幾度も救われた。生後7ヶ月頃から息子は夜泣きがひどくなったのだが、抱っこしてあげると即座に泣き止んだ。息子が遊んでいて痛い思いをした時には、抱き上げて「痛いの痛いの飛んでけー」と言うと次第に落ち着いた。ベビーシッターや親に息子を預けて外出する前には、寂しくならないように力いっぱい抱き締めて頬ずりしてあげた。すると迎えに行った時もニコニコしていた。
この子をいつまでこんな風に抱っこできるのだろう、とふと思う。そのうち離れていくのは当然だし、男の子だから照れるようにもなるし、「ウザい」なんて言われる日もいずれ来るのだろう。でも許される限りどんな時でも息子を抱き締めてあげようと思う。嬉しい時は喜びを共有し、悲しい時・寂しい時にはいたわり癒してあげたい。いずれこの魔法は解けて使えなくなってしまうのだから。
先日、私が床に新聞を広げて座っていた時の事である。突然、ふわっとしたぬくもりを背後に感じた。息子の手だった。その温かく小さな両手は交互に私の背中を這い、次第に肩に回り、最後には首にたどり着いた。“おんぶをしてもらいたいのかな?”“それとも新聞が欲しいのかしら?” “単に背中に登りたいだけかも”。その不可解な行動を察してみようとしたが、やっぱりやめておいた。きっと私を抱っこしてくれようとしているんだ、と解釈する事にした。
それにしても、抱っこってすごい。なんて満ち足りた気持ちになるのだろう。なんて喜びが溢れてくるのだろう。多少育児が思うようにいかなくても、抱っこしていると次第に気分がほぐれ、「まあいいか」と次第に思えてくる。イライラしてつい声を荒げてしまい、びっくりして泣く我が子を我に返って抱き上げると自分が泣けてくる。そのまま「ごめんね」と力いっぱい抱き締めていると、心から優しい気持ちになる。実はこの魔法にかかっているのは、息子ではなくこの私なのかもしれない。
背中にぬくもりとかすかな息遣いを感じながら、私は目を閉じてそのまま動かずにじっと座っていた。そして「このまま時間が止まってしまえばいいのに….」なんて、本当に魔法みたいな事を考えた。