【第6回】
~ 赤ちゃんが教えてくれた喜び ~
特別賞
みんなで産もう
【一般部門】 松尾博臣 長崎県 公務員 49歳
海外旅行のプランを眺めて、私はほくそ笑んでいた。1999年9月9日、職場でのことだ。1週間後はバンコクの空の下。20年勤めてきて、やっと手にした長期休暇だった。
「インドの首都はインドネシアだって知ってるか?」
「何となく分かる」
「で、タイの首都はタイワンだ」
「俺もそこまでバカじゃない」
そんな飲み仲間とタイ旅行に出掛ける。けれど一抹の後ろめたさはあった。妻の第2子の出産が1か月後に控えていたからだ。打ち明けると、彼女は「いってらっしゃいよ」と言った。そうだな。確かに赤ん坊が生まれたら、旅行どころではあるまい。分業だ。今回は自由にさせていただく。
11時過ぎ、職場の電話が鳴った。「奥さんからだよ」と同僚が言って、私に電話が廻る。
「どうした?」
受話器の向こうで、妻が嗚咽していた。
「羊水がないの」
国立病院に着く。妻は赤ん坊の心拍数を測定するためにベッドに乗せられ運ばれていった。それからそれほど置かず処置室から出てきた医師は、
「お腹の中のお子様に、心拍が認められません」
と端的に告げた。
「最善は尽くしますが、様々な状況を考えておいてください」「よろしくお願いします」「赤ちゃんは助かったとしても、障害があると思われます」「助けてください」あわただしく手術許諾の書類にサインし、ドアの向こうに妻が消えていくのを見届ける。半ば放心しながら小1だった娘を迎えに行った。家に着くと娘は冷蔵庫の前にいて、口の周りをソフトクリームで白くして「ん?」とこちらを向いた。
その日は焼け付くような夕日だった。ありとあらゆるものの影を長く伸ばした赤い日差しが、手術室の前にかがみ込んで祈る私と娘に差し込んでいた。
今、息子は小学校1年生になった。
彼は妻のお腹から取り出されると、大声で泣いたらしい。修羅場を見てきたのだろう。手術室のドアが開いて、看護婦さんが母子共に無事だと告げてくれた。指示されて私は未熟児室の手続きに出かけ、連絡を受けて悪友はタイ旅行がポシャったことを知ると同時に、手術室前まで娘の面倒を看にきてくれた。
「お父さん、母子共にご無事でしたよ」と執刀医師から祝いの言葉をかけられたのは、何を隠そう彼である。
それから未熟児室通いが始まった。妻が通い、私が通い、私の母が通い、妻の母が通った。息子の顔は、今写真で見ると生まれたての時分は猿に似ている。けれど、最高にかわいかった。家族がたくさんの話をした。家族はみんなでこの子をもう一度産もうとしていた。それが赤ん坊が教えてくれたことだった。それから1か月後、息子は保育器から無事外の世界に生まれ出てきた。
かつて猿に似て、現在イケメンと冷やかされている息子は、家族の構造を変えた。私の帰宅時間はやたら早くなり、娘は飽かず赤ん坊の顔を眺め続け、親族はしばしば赤ん坊詣でに訪れた。何を隠そう、ベビーベッドの生地を張り替えアップリケを付けたのは、この私である。
早いものだ。もうそのベビーベッドもなく、息子は大方の心配をよそにすくすくと成長し、私もまたタイ旅行を密かに狙いはじめている。新しい家族の誕生で、新しいわが家のかたちが誕生し、元気に笑い合い、喧嘩し、そして家族として確実に成熟しつつある。