【第6回】
~ 赤ちゃんが教えてくれた喜び ~
特別賞
母親になった瞬間
【一般部門】 中谷幸子 大阪府 主婦 30歳
「わぁーっ!」
「ホラ、元気に泣いてる!」
遠くから聞こえた、夫と母の声。
私は分娩台の上で荒い息をしている。
(あぁ、やっと出てきたんだ・・・)
長い陣痛に耐え、頭の中が真っ白になるほど必死でいきむこと数回、ついに我が息子がこの世に誕生した。
初めて母親になった喜びとか、胸に込み上げてくる熱いものとか、そんなものは全くなく、ただただお産が終わったという解放感でいっぱいだった。
「おめでとうございます!」
私のお腹の上にドサッと乗せられた、我が息子。モゾモゾしている。
それまではエコー画像で影のようにしか見えていなかったから、あまり実感が湧かない。「エッ?僕が切るんですか?」
隣では夫がへその緒を切るよう指示されていた。
場の雰囲気からしても断れる状況ではなく、困惑した表情でハサミを握る夫。
(あぁ、へその緒のこと言っておくの忘れてたなぁ・・・)
血を見るのが怖くて立会いするのをためらっていた夫だったが、私の頭の方に立って汗を拭いたり手を握ったりしてくれるだけで良いと言って安心させていたのだった。
「こ、ここ切るんですか?・・・うわ、硬いなぁ」
四苦八苦しながらも夫の手により私と息子は無事に切り離され、ようやく別々の個体となった。
翌朝、夫に支えられながら新生児室へ行った。大きなガラスの向こうには可愛らしい赤ちゃんたちが並んでいる。一番右の赤ちゃんは自分で蹴飛ばしたのだろう、布団がはだけていた。ネームプレートがこちら側からは見えない位置についていたので、夫が確認したところ
「一番右がウチの子だって」
この足癖悪い赤ちゃんが私の子。そういえば、出産直前までドカドカお腹を蹴られていたことを思い出した。
お昼になり、赤ちゃんが病室にやってきた。私は疲れていたのでベッドに横になったまま。夫や母は、代わる代わる抱っこしたり写真を撮ったりと盛り上がっていた。赤ちゃんの小さな手を突付いてみると、私の指をギュッと握った。
(信じられないなぁ・・・)
どちらかというと、息子が誕生した喜びよりも夫や母が喜んでいるのが嬉しかった。自分の息子だと頭では分かっていても、いきなり目の前に現れると他人の子のように思えて仕方なかった。
その夜、夫は新幹線で自宅へ戻り、母も家に帰っていった。病室に残された赤ちゃんと私。恐る恐る自分のベッドに赤ちゃんを移し、添い寝をしてみた。音のない静かな空間で赤ちゃんと二人きり。
そして、“その瞬間”は突然やってきた。
赤ちゃんに顔を近づけると、ふんわりと甘くいい匂いがする。
(これが赤ちゃんの匂いかぁ・・・)
しばらくその匂いをかいでいると、急に鼻の奥が熱くなり目から涙がポタポタと落ちた。まつ毛も生えていない目、低い鼻、小さな口・・・そぉっと触れながら、とにかく全てに愛しさが込み上げてきた。涙は次から次へと溢れ出る。母親の自覚なんていうのはよく分からないけれど、この子がとにかく大事だと感じた。
早いもので息子も5ヶ月を迎えた。私たちも父親・母親になって5ヶ月経ち、慣れた手つきで息子を抱く。私たちはずっと前からそうであったかのように、一つの家族になっている。
私たちは、夫の転勤により実家から遠く離れたところで暮らしている。最初は夫の他に知り合いもなく寂しい毎日だったが、今では息子をベビーカーに乗せて散歩していると、誰かしら声をかけてくれるようになった。近所に住む子供好きのおばあちゃんだとか、八百屋さんのおばさん。地域の母親教室で知り合いもできてきた。この街を知ろうと躍起になって一人で歩き回っていたときよりも、この街を知り、そして確実に溶け込んでいるのを感じている。息子が生まれて私の生活が一変した。それは一見制限されているかのようだが、実は見えないところで私の居場所を広げてくれているようだ。
そして、あの日急に込み上げてきた愛しさは、今でもときどき静かな夜に私をふと涙ぐませる。