【第5回】
~ 赤ちゃんと笑顔 ~
入選
笑わない アカチャン
【一般部門】 岡山県 学生 21歳
2005年7月13日、高校時代の友人シマダから写メールが届いた。
『生まれたよ~。3067グラムの男の子でした☆』
私は現在21歳。子供がいたって決して珍しくない歳だが、私の周りの同級生にはまだ、子供が生まれたという人はいなかった。シマダが第一号である。おぉ、ついに生まれたか、なんて思いながらメールを受信すると、そこにはまったく普通の、赤ちゃん以外にありえないものの写真があった。丸くて、赤くて、小さい。薄黄色の布団にくるまれて寝ている。
あいつこのひと生んだんか!!!
私は今まで、赤ちゃんは人間ではないと思っていた。赤ちゃんは「アカチャン」という生物で、「ニンゲン」ではない。まったく赤ちゃんというものは、喋れないし立てないし、もちろん歩けない。最初の方は笑いすらしないのである。ということは、当たり前だが意思疎通は不可能だ。
意思疎通が不可能という点では、多少喋れるようになった幼児も、「ニンゲン」ではない。何を考えているのか分からないし、同じことを飽きずに繰り返し、そのたび笑う。私は決して赤ちゃんや幼児を嫌っているのではない。むしろ好きだし、それに、どちらかというと好かれる。ただ「ニンゲン」と見なしていなかっただけだ。
しかし写メールを見たあと、それは「生んでいない女」視点であったことに気づいた。自分が生むことを想定していなかった点で、限りなく男に近い視点とも言えるかもしれない。その写メールに写っていたのはごく普通のかわいらしい赤ちゃんで、コレをあのシマダが生んだのだ、と思うと、ものすごく衝撃だったのである。
シマダ、立派に「ニンゲン」生んでるんじゃん!
それでも「生んでいない女」の私は、『痛かった?』なんて陳腐な質問しかできず、でも、将来自分が生むかもしれない「アカチャン」が「ニンゲン」であることを疑問に思わないであろうことに気づいたのだった。当たり前だが、「アカチャン」はやっぱり「ニンゲン」だったのである。
シマダは自分の生んだ赤ちゃんを見て、でかい、と思ったそうだ。しかし逆に彼女の旦那さんは、小さい、と思ったという。
きっとこの世には、大きく分けて「男」「生んでいない女」「生んだ女」の三種類が存在するのだろう。一生生むことのできない「男」だから小さいという感想を持ち、自分の腹の中で育っていく子供を「生んだ女」だからこそ、でかいと思ったのだ。
私は今「生んでいない女」で、当分生む予定もない。しかし、「将来生むかもしれない女」である。自分が赤ちゃんを生むかもしれないと考えると、今は信じられないが、きっと生むころには信じられなかったことが信じられなくなっているのだろう。
8月3日、一足先に「生んだ女」となったシマダからメールが届いた。
『お盆にでも、家族三人で岡山に帰るよ~♪』
シマダと旦那さん、そして彼女の愛息子は、今年のお盆、私の住む岡山に里帰りするらしい。添付された写メールには、半分しか目を開けていない、でもカメラ目線の顔。まだ笑わないはずの赤ちゃんは、かすかに微笑んでいるようだ。そしてその横には、シマダの満面の笑顔が並んでいた。高校時代に見慣れたはずの笑顔なのに、すっかり母親の顔をしている。気づかぬうちにつられて笑っていた私は、愛すべき赤ちゃんのよだれかけを買うために、街へ繰り出した。