【第4回】
~ はじめての沐浴 ~
入選
沐浴が得意です!
【一般部門】 京都府 パート 40歳
何を隠そう、私は赤ちゃんの沐浴が得意である。別に、子沢山で経験豊富な訳ではない。歳の離れた兄弟姉妹が大勢いて面倒を見ていた訳でもない。たった一度だけ保健所で受けた沐浴の講習が、私を「沐浴が得意です。」などと豪語できるようにしたのである。
結婚8年目にしてようやく赤ちゃんを授かった私だが、当時勤めていた出版社の仕事は多忙を極め、毎日大きなお腹をかかえながら打ち合わせなどで飛び回っていた。初めての出産が控えているのだから、せめて一度くらいは妊婦らしくマタニティクラスなるものに参加してみたいと思っていたが、半日だけの休みが取れてようやくクラスに参加できたのは臨月に入ってからだった。その時の課題が沐浴だったのだ。
出産後の出来るだけ早い職場復帰が控えていた私には、遠方の実家へのお産の里帰りなどは不可能に近く、近くに住む主人の母も「沐浴なんてできないわ。」と過去の育児経験は忘却の彼方に飛び去っており、主人はいつも周りをウロウロ、オロオロのギャラリー。よし!それならば生まれてくる赤ちゃんをお風呂に入れてあげられるのは、世の中でこの私しかいないとばかりに意気込んで臨んだ講習だった。
ひと通りの説明を聞いた後で、いよいよお人形さんを使っての実技。今思えば、何てことのないセルロイド製のお人形さんだ。しかしその時は、この子の命は私が預かっているのだとばかりに真剣そのものだった。何としても「沐浴」なる母の技をマスターしなければと、気合も充分に自ら名乗り出て3度も実技をさせてもらい「なかなかいい手つきですよ。」との保健婦さんのお誉めの言葉に、大満足で講習会場を後にしたのだった。
それから1ヵ月後、出産を経た私に実践の時が訪れた。初めは本物を目の前にして、講習時のように上手く出来るだろうかと不安はあったが、実際にしてみると、あらまぁこれがまた簡単。あのつるつる滑る練習用のお人形さんに比べたらやり易いこと。娘の小さな頭はすっぽりと私の手のひらに収まり、生まれたての柔らかい肌は吸い付くように私の肌にフィットし、気持ちよさそうにムニャムニャしている。その上、ひっくり返して(?)背中を洗ってあげる時の娘の表情のかわいらしいこと。「落ちるものか~」とばかりに私の腕にひしとしがみついている。思わず、例によって周りをウロウロしている主人に「早くこの角度から写真を撮って!」と叫ぶ。あまりのかわいらしさに沐浴の手を止めてうっとりと眺めてしまい、今となっては、ゆで蛸のように真っ赤な顔をしてしがみついている娘の写真が何枚も残っている。何はともあれ、さっぱりして気持ちよさそうにしている娘を見て、沐浴後の私の心もいつもさっぱりしていた。
しかし、娘がどんどん成長するにつれて、プールのように大きかったベビーバスは窮屈になり、浴槽で入浴できるようになると同時に、楽しかった沐浴生活はあっと言う間に終わりを告げた。今でも、ご近所に赤ちゃんが生まれたと聞くと両手がウズウズするのだが、いきなり「沐浴させて下さい。」と申し出る訳にもいかず、以来自称「得意の沐浴」は封印されたままだ。次に日の目を見るのは、一人っ子の娘が母親になり私がおばあちゃんになった時だろうか。なんとも気の長い話である。
今思えば初めての育児はわからない事ばかりで、失敗と反省の連続だった。その中で、唯一沐浴だけが私が自信を持ってできることだった。本当に上手だったかどうかはわからない。しかし、たった一つの満足できた沐浴体験は、それ以外の失敗の数々を文字通りお湯ならぬ水に流し、すべてを楽しかった思い出に変えてくれたような気がする。