【第4回】
~ はじめての沐浴 ~
入選
聖夜の誓い
【一般部門】 愛知県 会社員 39歳
「今週の日曜日に、沐浴指導があるから出てね」
9年前の話である。妻は3日前に出産したばかりで、病室のベッドに横になりながら私に言った。その隣には、小さなベッドが置かれ、娘がスヤスヤと眠っている。窓の外の商店街からは、クリスマスソングが聞こえてくる。
今度の日曜は、クリスマスイブだ。妻と娘の退院の日でもある。初めて授かった子供で、育児は全く分からず不安だらけだ。「沐浴」と言われても、イメージすら湧かない。
指定された時刻に、私は産科病棟の沐浴室へ出向いた。女性の「禁断の園」へ足を踏み入れるようで、居心地が悪かった。変なオジサンに間違われないように、「家内と娘がお世話になります」と背の高い助産師さんに大きな声で挨拶した。すると彼女は、「赤ちゃんが、びっくりするからシーね」と口に人差し指を当てて返事した。
部屋は暖かく保たれ、机の上には38度のお湯が入ったベビーバスが用意されていた。彼女は、青い容器から何滴か白い液を入れた。私はレクチャーを受けた後、キューピー人形で沐浴の練習をした。そこに妻が、娘を抱いて現れた。助産師さんの「耳は餃子」の言葉通り、私の左手の親指と小指で、娘の右耳と左耳を押さえ、掌で頭を支えた。右手に持ったガーゼで体を撫ぜるように拭く。娘の肌はツルツル、スベスベして温かい。それに乳臭さが赤ちゃんらしく、頬擦りしたい気分にさせてくれた。娘の目は最初、お湯に驚いてシューマイのように大きくなったが、やがて心地よいのかビーフンのように細くなった。私は、娘をお湯の中に落としてはいけないと、抱く手には腕から力が入っていた。
妻が娘に授乳するように、沐浴は私と娘のコミュニケーションの場にしようと思った。妻は、カメラを構え私の初めての沐浴奮闘シーンをファインダーに収めようとしていた。しかし、私は娘の裸を誰にも見せたくないし、愛娘との共同作業を邪魔されるようで「娘のヌード写真を撮るな」と怒った。これからは毎日、残業せずに帰宅し、娘の体を洗うのは、この私だと心に決めた。出来る事なら、嫁に行くまでずうっと一緒に……。
昼過ぎ、病院を後にした私達の車は、妻子がひと月程過ごす妻の実家へ向かった。いつもは無愛想な義父は、初孫を迎えた喜びで「さぁ、おじいちゃんがお風呂に入れるぞ」と、いきなり娘を抱いて風呂場に消えてしまった。本人も下着姿だったから、ベビーバスを使わずそのまま浴槽に入れる気だ。あーあー、神聖な娘の裸を私以外の男性に見られてしまう。しかも義父と混浴だ。抗議したが、全く相手にされず、早くも私の夢が破れた。
すると、「やってくれた」と義父が苦笑いして腰にタオルを巻いたまま現れた。娘が、浴槽内でウンチをしたのだ。内心「我が娘よ、よく抵抗した」とほくそ笑んだ。そんな私に義母は「ビールでも飲む?」と声をかけてくれたが、「車ですから」と断り帰宅した。
私は自宅マンションでひとり、二人の退院に祝杯を挙げていた。昼間の一連が脳裏から離れず、つまみは餃子とシューマイだった。空になったビール瓶が数本並んだ頃、インターホンが鳴った。サンタクロースかと思ったら、宅配便だった。差出人は友人で、「出産祝い」の箱には、オムツやミルクなど実用品が詰められていた。子育て経験のある彼ならではの贈り物だ。そう、あの青い容器もある。
単なる酔っ払いと化していた私は、沐浴の復習とばかりにベビーバスにお湯を張り、白い液を数滴入れた。「きーよーし、前川きーよーし、この夜……」と音程の外れた歌を歌い、キューピー人形を手に、お湯の中で体を拭いていた。しかし、手元が覚束無い。人形がお湯の中へドボーン。あーあ、溺れるー。本物の娘でなくて良かったと、冷や汗が出た。私はクリスチャンでないが、「飲んだら沐浴するな。沐浴するなら飲むな」と聖夜に誓った。