【第2回】
~ 赤ちゃんが教えてくれた喜び ~
優秀賞
「三人目の”女の子”」
【一般部門】 新納 三郎 埼玉県 無職 68歳
もうずいぶん前のことですが、昭和四十年代、三番目の子供が生まれた頃の話です。
切迫早産のピンチなど親を悩ませた長男は東京・中野区の病院で、二つ年下の二男は日野市の産婦人科で生まれたのですが、これまたその二つ下の期待の三人目を、妻は信州の実家で生むことになったのでした。
期待の、というのは実家近くにいる懇意の産婆さんが妻を診察して、次は必ず女の子と太鼓判を押してくれたからです。三人目こそ女の子をと熱望していた僕ら周囲の者は、踊り上がって喜んだものです。産婆さんは妻が生まれる時も取り上げてくれたベテランで、特に胎児の男女鑑別は百発百中、ほとんど間違えたことがないという評判でした。当時はまだ科学的鑑別法もなかったのです。
幼い二人の息子の子育てで苦労する妻は、上機嫌でした。娘ならさほど手がかからないというし、少し大きくなれば家事も手伝ってくれるというわけです。僕らは予定月に因んで「さつき」という名前も用意しました。
長男の時は初産のせいか、妻のおなかは牛と大きさ比べをして、腹をポンポコリンに膨らませたイソップ物語の、あのバカな蛙のように膨れて、胎児が外へ出られるのかなと心配になったくらいです。が、生み慣れとでもいうのか、二男の時はあまり膨れなかったし、そして三度目は妊娠しているのかどうか、はた目にすぐにはわからないほどでした。
「女の子だから、胎児の時も体が小さいのは当然でしょう」と妻は笑いました。東京の産婦人科でもたまに診察だけは受けたのですが、医師によれば、やはり心音も弱く小さいのだそうです。妻も、胎内でおなかを強く蹴っていた息子たちに比べると、蹴り方もおとなしく女の子らしいと言います。
やがて臨月となり、妻は二人の息子を連れ喜び勇んで信州へ帰省しました。一人になった僕は、職場でも妙に落ちつきません。息子の育て方なら少しはわかってきたつもりでも、娘にはどう接すればいいのだろう。少なくとも、妻以外は男ばかりで荒っぽい家庭も、娘の出現で和らぐにちがいない。とりあえず記念に博多人形かフランス人形でも買っておくか、いや、まだそれも早いか・・…。
しかし、何日か後、信州からかかってきた電話で、僕の期待は木っ葉みじんに打ち砕かれたのでした。木っ葉みじんに。
「また男の子ですよ。それもお兄ちゃんたちより大きな男の子で、うちのおじいちゃんに似たのかゴリラの子みたいな顔をして、胸板も倍ぐらい分厚いんですよ」
義母のうれしげな声を聞きながら、僕はがっかりするというより、危うく吹き出すところでした。可愛い女の子のはずが、ゴリラの子みたいな、分厚い胸板の男の子だって? 自信満々で女の子だと保証してくれた、あの産婆さんの鑑別眼は一体どうしたんだ? 僕には妻が少し気の毒になったのでした。
でも、すぐ思い直したものです。二人兄弟だと上は総領の甚六、下は甘えん坊の末っ子だから、しつける上でむづかしいけれど、三人兄弟なら真ん中の二男をバネに三人が切磋琢磨して、それぞれ個性的で強い息子に育ってくれるにちがいない。ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」だって、三人兄弟じゃないか。
「また男の子でごめんね。でも、とても丈夫そうよ」と妻は電話の中で言いました。その声は意外に明るく、むしろ楽しそうでした。
「お前こそ、がっかりしたんじゃないの?」
「仕方がないわよ。神さまからの授かりものだから、立派に育てましょうよ」
「それにしても、あの産婆さんの目利きはいい加減だったね」と僕が苦笑すると、妻も笑い出し、噂話で聞いたという、産婆さんが胎児男女鑑別の神通力を失った理由というのを、僕に話してくれたのでした。
それによると、何ヵ月前だか、ある家の妊婦が急に産気づき、あわてた亭主は自転車を走らせ、産婆さんを迎えに行ったのだそうです。そして産婆さんを荷台に乗せ、雨上がりの田舎道を家へ急いだのですが、よほどあわてていたのかハンドルを切り損ね、ぬかるんだ泥田に自転車と産婆さんもろとも突っ込んで、ひっくり返ったと言います。
二人とも泥だらけ。ようやく家にたどり着き、まず産湯を使ったのは産婆さんで、顔や手足の泥を洗い落とし、無事に赤子を取り上げたのでした。話はそれからで、泥田に突っ込んだ時、産婆さんは頭の打ちどころがわるかったらしく、以後、男女鑑別の神通力も狂い始めたというのです。
「それは産婆さんの単なる言い訳だよ」
「でも、人間だれしも年をとると腕もカンも鈍るわよ。とにかく無事に出産させてくれただけでも、私は産婆さんに感謝してるのよ」
あれほど女の子を欲しがっていた妻にしては、あっけにとられるほどの豹変ぶりでした。母親にとって、いったん生まれた子は男女いずれであろうと、もう宝物なのでしょう。
やがて妻たちは帰京してきて、僕も三男と初対面を果たしました。たしかに義母のいう通り、三男は兄たちより大きく、胸板も厚く、赤子ながら堂々たる偉丈夫ぶりでした。が、親の欲目か、その目や表情だけはとてもやさしく、おとなしげだったのです。
「あの産婆さんは神通力が狂ったのではなくて、年功を積んだベテランでも、おなかの赤ちゃんの心までは読みとれなかったんだわ」
それから妻は、こんなことを言い出したのでした。つまり、三男は胎内で外界の身内が、特に母親が娘を切望していることを感得し、苦しくて悲しくて小さくなっていたというのです。手足もちぢこめ、息をひそめて心音も低くなり、おなかを蹴るのも遠慮して弱々しくなったのです。
もし男の子とわかれば、親はどんなに失望することだろう。中絶されて、生きられないかも知れない。だから女の子のふりをしていれば母親も周囲も喜ぶし、自分も胎内から外へ無事に出られる可能性が高くなる。
妻は、三男は胎内でそう体感していたというのです。そういえば、かつて僕らは両親に結婚を激しく反対され、中絶寸前の長男も妻が必死に守り抜いて生まれたのでした。生まれるということは、それほど大変なことなのか。僕は胎内で必死に耐え忍んでいた三男の心を思い、涙がとまらなくなったものです。
胎内にいる時から苦労をかけ、心配をさせてごめんね、と僕は心の中で三男にも深く詫びました。かつて長男に詫びたように・・・…。そして赤子には、まして胎児には何も理解できるはずがないと思っていた僕は、たとえ胎児でも必死になって生きようとする、必死になって愛を求めようとする、その生命力やこころ根のかな愛しさに、何やら人間のほんねん本然的なものを教えられたような気がしたのでした。
実際に女の子が生まれたのは、それから五年後のことです。