【第2回】
~ 赤ちゃんが教えてくれた喜び ~
佳作
「生きる力」
【看護婦助産婦部門】 春瀬 悦子さん 神奈川県 助産婦 25歳
「看護婦さん痛いよー。何か出る。出る。痛い。」そう言いながらaさんは全身に力を入れていきんでいました。私は慌ててaさんの股の間を覗きました。嫌な予感は的中しました。そこには、赤ちゃんの髪が見えていたのです。応援のスタッフを呼び分娩室に入室したと同時に赤ちゃんは産まれました。分娩台に移動することなくベッドの上で産まれました。小さな小さな赤ちゃんでした。産科の先生が赤ちゃんに応急処置を施しました。その小さな赤ちゃんの体の色は黒く、だらんとしていました。もちろん産声もあげませんでした。「お願い、泣いて。泣いてお願い。お願いだから死なないで。」私は祈りました。全身が震えて本当に怖くてたまりませんでした。
小児科の先生が到着し、赤ちゃんは挿管されてnicuに入りました。
aさんは、病院の近くの駅で腹痛を訴えたため、当院の救命救急センターに送られてきたのですが、その時初めて、妊娠が発覚したのです。今日まで全く受診をしていないため妊娠週数がわかりませんでした。
aさんは、なんとなく妊娠に気づいていたらしく、本人の話から、妊娠20週相当だと考えられていました。そのため流産になる確率が高く救命は難しいと考えられていたのです。
しかし、超音波で赤ちゃんの大きさから現在の妊娠週数をわり出すと、妊娠24週相当という診断がついたのです。妊娠22週から早産域に入るため、流産ではなく早産となり、赤ちゃんが産まれたら、できる事は全て行うことができるように、小児科の先生にも万全の体制で待機してもらっていたのです。
一方私はまだ新人で、分娩介助の研修中でした。それまで正期産のお産しかとりあげたことのない私には、とても重い任務でした。
本来なら、産科医、小児科医双方が立ち合う中でのお産にしたかったのですが、私の腕が未熟なために、万全な体制で赤ちゃんを迎えてあげることができませんでした。
赤ちゃんは保育器の中で呼吸機をつけられていました。小さな小さな体にはチューブが沢山ついていました。
aさんの家庭は貧しく、今まで五人の子どもを出産しているのですが、皆別々の施設に入所させているとのことでした。今回の入院と出産費は出すのが困難であり、朝早く病院をぬけ出そうとしたところを、守衛さんにつれ戻されるという事件もありました。
結局、赤ちゃんは6ヵ月間nicuに入院していたのですが、その間、誰一人御見舞に来ませんでした。
赤ちゃんには「たっちゃん」というあだ名が付きました。nicuのスタッフの方々が親代わりとなり、たっちゃんに愛情を注いで下さっていました。私も何度もたっちゃんに会いに行きましたがたっちゃんに申し訳なくて、真正面から見ることができませんでした。
たっちゃんの事があってから、私はますます、お産が怖くなりました。正常なお産でも、もし何かあったらどうしよう、死んでしまったらどうしよう、と怖さが先立ってしまい、過緊張の毎日でした。夢の中でも、正常なお産が急変し、だらんとした黒い顔色の赤ちゃんが産まれる夢をほとんど毎日見るようになりました。私は助産婦としてやっていけるのか、とても不安でした。たっちゃんにもしものことがあったら、私はどう責任をとれるだろうと、マイナス思考が続きました。
でも、そんな私をたっちゃんは励してくれるかのように、日々元気になって6ヵ月後、無事に退院したのです。残念なことに、誰にも引きとってもらえず、施設に行くことになりましたが、スタッフの方々がとても優しく、私達は安心しておまかせすることができました。
施設の方々は、3ヵ月毎に病院にたっちゃんを連れてきて下さいました。来る毎にたっちゃんは大きくなっていました。
元気なたっちゃんに会う度に、私の心は少しずつ元気をとり戻していきました。お産に対しても怖い気持ちは少し和らぎ、良いバランスを保てるようになりました。
先月、施設の方がたっちゃんが3歳になったため他の施設に行ってしまうことを伝えに来て下さいました。その日のたっちゃんは、とても御機嫌で、「トーマス」と機関車トーマスのプラモデルを私達に得意気に見せてくれました。今ではトイレットトレーニングも始まったたっちゃん、すっかりお兄さんでした。3年前、972gで生まれた小さな赤ちゃんが、ここまで育ったことに、感謝しています。たっちゃんを支えてくださった周りの人々にはもちろん、ここまで生きようとしてくれたたっちゃんに本当に感謝しています。
たっちゃんの生命力が私にパワーを与えてくれました。たっちゃんの存在が私の大切な宝物です。たっちゃんに多くの幸せが降りそそぐことを信じています。