【第13回】
~ 赤ちゃんとのふれあい ~
入選
復興への揺り籠
大阪府 公務員 男性 50歳
ベビーバスの中の赤ちゃんがニコッと笑ってくれた。日本のみならず世界中を震撼とさせた3・11.東日本大震災のご遺体安置所に隣接した宮城県の避難所でのことである。
「あぁ。気持ちよさそう、良かったねぇ。」
「プカーッて浮いてる。あっ、また笑った。」
女の子の赤ちゃんの笑顔は周りに居合わせた被災者の心をも和ませた。この人達がこんなに幸せそうな笑顔を見せたのは多分、発災の日から数えて初めてのことだっただろう。
それは私も同じだった。発災の翌日から被災地の沿岸部に他県の警察官として人命救助に派遣され、怪物のように立ち塞がる瓦礫の中でバール一本だけを手に声を枯らして生存者を捜索した。「生きてるかっ」「返事をして下さいっ」だが、私達がどれだけ叫んでも生存者は確認できず、瓦礫の中から、側溝の中から発見されるのは老若男女のご遺体ばかりで、やがてそのご遺体を安置所へと搬送するつらい日々が続くようになった。安置所には行方不明になった身内や知人を捜す被災者が殺到し、ご遺体と対面した遺族の悲鳴、号泣、慟哭が私の鼓膜に振動して心の中で哀しみと溶け合う。一人も助けられず、それでも人命救助のプロかと自らを責める毎日だった。
そんな辛い日が二週間ほど続いたが、唯一の救いが隣接する避難所で子供達と触れ合う時だった。小学校が壊滅して通学できない子供達は避難所の外で縄跳びやミニサッカーをする。私達も休憩時には一緒に遊んであげた。
子供達の笑顔は派遣の初日に「お父さん、東北の人を助けてあげてね。」と手を振って見送ってくれた自分の娘の顔と重なり、遠くから来た私達の心のビタミン剤になるのだ。
子供達は実によくお手伝いをした。避難所で暮らす中で特に重要な仕事は水汲みで一日二回、行政機関や自衛隊の給水車が回ってくるが子供達は率先して自分の家族用の水汲みのために重い容器を担いで運ぶ。その中にK君という四年生の子がいて、他の子より倍の水汲みをした。去年の暮れに産まれた妹用のお風呂の用意をしなければいけないのだ。赤ちゃんの存在は小学生の兄の意識をも変える。
偉いね、重いのに、と私がK君にいうと、「父さんが帰って来るまで。大変だけどね。」
行方不明の父親に代わっての水汲みなのだ。強いな。この子は。本当の男とはK君のような男の子のことを言うのだと私は強く思った。
避難所生活は被災者が同志になる時がある。赤ちゃんをお風呂に入れる時がまさにそうだ。コンロに置いた薬缶の湯加減を見る人、ベビーバスに水を注ぐ人、配給されたガーゼを拡げて赤ちゃんの胸にかけてあげる人。皆、他人なのだが一度は子育てを経験したことのある女性達。だけどやっぱり洗ってあげるのはお母さんに譲る。それが親子への敬意だろう。
右手の指で赤ちゃんの耳に栓をして、左手は腰の辺りにそっと添える。ゆっくりと足からバスにつけていく。赤ちゃんは一瞬、両拳を握りしめ、ブルッと身を震わせるが、やがて安心しきったように全てを母親に委ねた。
ベビー石鹸の香りに包まれながら、冒頭に記したように赤ちゃんは笑顔になっていった。
ふと周りを見渡すと、幾重にも囲まれた輪の中の人達が赤ちゃんを見ながら笑顔になっている。しばし感傷的になる。身内を亡くし、津波で家を流されて、明日への希望も見い出せない中でも笑顔になれる一瞬があるのだ―
あれから二年が過ぎた。今でも私の心は常に被災地に置いてある。K君は、赤ちゃんは、避難所にいた人達は一体どうしているのだろう。そして今になって確信したことがあった。
あのベビーバスは復興への揺り籠だったのだ。明日をも知れない不安の中で、被災者はベビーバスの中で精一杯未来に向かって生きようとしている幼い生命を自らの気持ちの支えにした。被災者の愛の中でゆらゆらと気持ちよさそうに揺れていた揺り籠。その証があの笑顔だったのだ。強くそう思いたい。