【第12回】
~ 赤ちゃんへの手紙 ~
入選
私をお母さんにしてくれたあなたへ
栃木県 主婦 女性 29歳
「この黒いところに赤ちゃんがいますよー。」
産婦人科で先生からそう告げられたとき、「赤ちゃんがほしいな。」とずっと思っていた願いが叶ったと思った。それがわが子、湊との出会いだった。
しかし、当たり前だがここからがお母さんになるスタート。私の妊娠生活が始まった。
つわりもほとんどなく、仕事も順調にでき、私は元気いっぱいの妊婦だった。
心配性だが、順調に物事が進むと楽観的な私。
きっとこのまま順調に妊娠生活が送れ、安産で産まれてきて、少々夜泣きをしても楽しみながら子育てできるだろうと、甘く考えていた。
しかし2011年3月11日、この日仕事をしていた私は、激しい揺れを感じた。クリニックで管理栄養士として働いていた私は、患者さんの安全確認や今後の対応などで妊娠していることも忘れ動き回っていた。このとき妊娠8ヶ月だった。クリニック内も家に帰っても停電、3月とはいえ、まだ肌寒かった。
次の日、お腹の痛みを感じた。その痛みは強くなっていき、仕事は行けなくなった。病院に行くと、「切迫早産」と告げられた。この日から安静、少しでも動くと痛みが押し寄せてきて、私は寝たきりになった。
このとき私は泣いて湊に謝った。何もトラブルがないことをいいことに、激しく動きまわり湊のことを考えていなかったこと、自分の都合の良いように考えていたこと。
このまま湊が危険な状態になってしまったら・・・不安でたまらなかった。
「ごめんね。ごめんね。」
そう言うことしかできなかった。
そして恥ずかしながら、お腹をさわってゆっくり語りかけたのはこのとき久しぶりだった。私は大きくなるお腹に満足しているだけで、母親の自覚が足りなかった。
その後、安静の生活を続け、切迫早産の心配も無くなり私は予定日まであと少しになった。散歩して話しかけたり、胎動を感じると話をしたり、湊をお腹の中で感じながらゆっくり母親になる準備をしていった。
予定日3日前の明け方、破水し入院となった。昼、夕方、夜、今思えばどう過ごしていたか覚えてないくらい体中が痛かった。その日も終わり次の日を迎えたが、湊はなかなか出てくる気配はなく、私の体力もなくなっていき、先生が促進剤や帝王切開の話をはじめた。
「早く会いたい。元気な顔が見たい。湊、お母さんに会いにきてー。」
促進剤を使い、あともう少し出てこなかったら帝王切開にしようと話していた夕方、湊への願いと、激痛と、朦朧とした意識のなか、湊が出てきてくれた。
「ぎゃー。」
湊の泣き声を聞いて、涙があふれた。
立ち会ってくれた湊のお父さんも涙を流していた。
腕の中に湊がきたとき、ずっしりと重みがきた。それは、「赤ちゃんがほしいな。」と願ってからの思いと、私が母親として湊の人生を背負っていく決意の重さに感じた。
それからの育児は想像以上に大変だった。
湊はおっぱいがうまく吸えなかったり、検診で反り返りが激しくて心配されたり、離乳食をずっと食べてくれなくて痩せてしまったり、1ヶ月に何度も熱を出したりした。1歳2ヶ月になった今でも夜中1~2時間置きに起きる。
しかし大変と思いながらも、湊の笑顔と、あの妊娠生活や湊が生まれたとき感じた気持ちを思い出すと、「よし、がんばろうか。」と前向きになれる。
湊がくれるこのひとつひとつの経験が母親として強くしてくれている。
湊、湊という名前は、みなとに船が集まって栄えるように、あなたのまわりにも人が集まって栄えるようにとお父さんが名づけました。そして湊に水が集まり潤うように、湊の人生も潤いのある人生になってほしいのです。
お父さんとお母さんがいっぱいの愛情を湊に注ぐから、あなたもお友達やたくさんの人と仲良くなって、人生を潤してください。
湊、私たちの子どもに生まれてくれてありがとう。
こんな素敵な思いをもらえて、お父さんもお母さんも幸せです。