【第11回】
~ 赤ちゃんがくれるチカラ ~
入選
ある夏の日
東京都 病院職員 女性 51歳
小学二年生の孫の海人は、夕方5時すぎに学童保育から帰ってくる。空の弁当箱と水筒を流し台に置き、その場で手をよく洗い、洗剤の横にある消毒スプレーを手首までかけ、急いで、音をたてずに階段を上る。
2階の部屋には、生後10日すぎた莉来とその母、海人にとっては叔母の未来が休んでいる。「ただいま」と、小さな声でノックする海人の顔と首すじには汗が流れている。「ああー、ああー」と泣き声が部屋の中から聞こえると、海人は、Tシャツのすそで汗をふき「りくちゃん」と笑顔で部屋の中へ入って行く。私はただ、ニコニコして海人の後を追う。
三人の子を産んだ私でも、新生児のだっこは、恐る恐るなのだが、海人は、体全体で、しっかりと、莉来をだっこして、もう話しかけている。
小さな足を動かし、手のひらをひろげたり海人の指をつかもうとしているようにも見える莉来のしぐさに、私達、大人にはできない解り合ってる何かがある。海人がうなずく顔と、莉来の顔の動きのリズムが、とても合っている。
未来が沐浴の準備をしている間、海人はずーっとだっこして待っている。そして、沐浴が始まると、ベビーバスの横にしゃがみ、「僕がだっこしているとね、ブリブリっておならしてね、変顔になってね、あはは」と、笑う。
未来は、「また、海ちゃんの顔みてうんちしたの?」と、白い小さいガーゼで、顔をふき、おなかをやさしく洗っていく。「ねぇ、お風呂でうんちぶりぶりってしたらどうするの?」と、海人が聞くと、未来は思いだしたように、「海ちゃん、赤ちゃんの時、ベビーバスの中でうんちしたよー」と、お湯をちょんと、海人にかけた。「えー、おぼえてなーい」海人は笑いながら、顔を手でふく。
私は、どきっとした。
我家では、長女が離婚して戻ってきてから海人の前では、別れた父親の話をしないのが暗黙の了解で、2才までの話題はタブーだ。まして、赤ちゃんの頃だと、完全に父親が側に居たので、決して会話にださなかった。
未来は云った瞬間、私を見た。私は、海人の後姿をすぐ見た。
父親の事を思い出し、何か、聞かれたらどうしようと、体中に針が、ささった感じがした。その針は、どんどん胸までくる。私は、海人の顔が見れず、台所へ行った。
しばらくして、沐浴が終わり、海人は、ベビーバスの中の湯を、洗面器ですくいだしている。夏休みのお手伝いのひとつだそうだ。
赤ちゃんの沐浴は、着替えを用意し、水温を計り、片方の手は大きく広げて、耳に湯が入らない様、神経を集中させ、もう片方では、ガーゼでやさしく洗い、視線は、赤ちゃんの体のいたる所を注意し、ちょっとしたあせももみのがさないながら、笑を絶やさず、声かけもする。たいへんな作業だと思う。
居間では、莉来はおっぱいを飲んでいる。体全体、力強く、飲んでいる。
私は、海人に「僕のパパは?」と聞かれたら、なんと答えようかと考え悩んでいた。7年前、若い20才のパパが、ベビーバスの湯をこぼし、かたずけていた姿が、昨日の様に覚えている。確かに、あの頃の若い夫婦は、愛情と希望を持っていたはずだ。
すると、タッタッタと、海人が私の前にきた。「おばあ、赤ちゃんのにおいがするよ。僕もこんなにおいした?」と云って、両手を広げて見せた。沐浴剤のいい、においがする。
私は、涙が急に流れているのに、笑ってしまった。さっきまで、心に痛くささっていた針が、とけていくようだった。
海人は、莉来をみながら、自分も赤ちゃんだった頃、大事にされていた事を実感していたにちがいないと、ふと、思った。
赤ちゃんのにおい。希望の光と香は、確かにあって、今日も続いている。ありがとう。