【第10回】
~ 赤ちゃんとの記念日 ~
特別賞
おねえちゃんの子守唄
鎌井 悦 愛知県 主婦 45歳
小さく産まれた次女は体の弱い赤ちゃんで、私は二歳の長女を抱え、連日、通院を重ねていました。夫は忙しくほとんど家を空け他に頼る場所もなく、産後、体調の優れなかった私は瞬く間に痩せてしまいました。
大変だけど本当に一生懸命だったあの頃…。
私には忘れられない特別な一日があるのです。
ある冬のことです。なんとか眠らせていた私の虫歯が、ついにズキズキ痛み始めました。鎮痛剤も効かず、そろそろ我慢の限界です。
「あー、もうイヤ! 私まで病院なんて…」
と、心底ウンザリしました。
ほどなく三人で歯科医院を訪れました。私は待合室の隅に次女を乗せたベビーカーを据えると、長女にこう言い聞かせました。
「ここで見ててくれる? すぐ戻るからね」
そして受付の看護婦さんに
「お世話をおかけします」
と挨拶をして、診察室へと入りました。
しかし子供たちが心配な私は、落ち着いて治療を受けることなどできません。
「少し削りますね。麻酔どうしますか?」
「時間かかりますよね? 子供を待たせているので、できるだけ我慢します」
「あっそう。じゃあ、いいんですね」
ガーガー…シャーシャー…。
医師の素っ気ない口調と機械音は、その日の私には何故か胸に深く突き刺さるようでした。
「どうして私ばっかり…」
私はたまらない気持になりました。それは歯を削る痛みのせいだったのか…。もしかしたら、来る日も来る日もひとりあくせく家事や子育てに追われ、歯の治療すら儘ならない自分が無性に情けなく惨めでならなかったのかもしれません。
「これくらいのことでバカみたい…」
私は気を紛らわそうと、いつも子供たちに歌う「ゆりかごの歌」を心で口ずさみました。
「ゆりかごのうたを カナリヤがうたうよ ねんねこ ねんねこ ねんねこよ」
驚きました。こんなことってあるのだと…。
突然、待合室から同じ歌が聞こえたのです。
「…ねーんねこ ねーんねこ…」
間違いありません。長女です。きっと日頃の私を真似て次女をなだめているのでしょう。
呆れるほど人見知りで甘えん坊な子です。そんな長女が調子外れな大きな声で子守歌を歌っているのです。私は可笑しいやら切ないやら…。言葉にはできない想いが溢れ、診察台でただ固く目をつぶるしかありませんでした。
診察後、受付の看護婦さんが言いました。
「赤ちゃんがぐずり始めたのでお姉ちゃんに声をかけたら、恥ずかしそうに『大丈夫』って…。聞こえました? 子守歌。ベビーカーを揺らしながらずーっと・・・。そうしたら、ほら。赤ちゃんもご機嫌で笑うんですよ」
ホッとしたのか、長女は私を見るなり顔をクシャクシャにしてベソを掻きました。
私はいったい何をやっているのでしょうか。
ママになって以来、子供たちからこんな幸せをいっぱいもらったはずでした。なのに、いつの間にか「ありがとう」だけ置き去りにし、日々の苦労ばかりを数えて…。心と体が疲れていたのだと思います。私ひとりが荷物を背負っていると信じていました。本当は支えられているのは私のほうだったのに…。
とても寒い帰り道でした。白い息を吐きながら私たちは歌っていました。
「ゆーりかごの…」
気が付けば、二番の歌詞までしか知りません。「ウチに帰ったら調べてみよっか」
私は真っ赤なホッペの長女と約束しました。
だから十五年後の今でも、私たち四番までちゃんと歌えちゃうのが自慢なんです。