【第1回】
~ 妊娠・出産、新しい生命の誕生に接して ~
優秀賞
生命(いのち)を抱いた朝
【一般部門】 木村 雄 神奈川県 会社員 49歳
昭和五十三年の一月、東京の朝は、純白の雪に清められた。早朝、まだ人けのない真白な町を、僕と妻は長靴を履いて、歩き廻った。妻は臨月だった。雪が珍しい沖縄生まれで、子供のようにニコニコしていた。バスが走ってきて、慌ててよける僕たちに、運転手さんがやさしく敬礼を送ってくれた……。
二十四日の未明、テレビの深夜映画を見終わって間もなく、妻が、おなかが痛いと言い出した。予定日まで、まだ一週間ある。冷えたのかな、と、のんきにかまえているうち、だんだんひどくなってきて、
「生まれるみたい」と、とうとう妻が言った。僕は驚いて、「えー、どうしよう、どうしよう、──そうだ、病院に行こう。歩ける?」
「歩けない」
父も母も亡くして孤立無援の僕と、遠い南の島からひとりぽっちでやって来た妻の、まるでおままごとのような暮らしが、今、ひとつの〝現実〟に直面したのである。出産とは何なのか、僕らには見当もつかないのだ。
急いで、かかりつけの産院に電話をかける。すると当直の看護婦さんが出て、眠そうに、「初産なんでしょ? そんなに焦らなくて大丈夫だから、明日の朝、こっちへ来て下さい」と、にべもなく言った。明日の朝? 僕は困惑して妻をみた。
「でも、すごく痛がってるんです」
「そのうち収まるでしょ」
なぜか機嫌が悪く、口調も人をバカにしたようで、全く取り合ってくれない。電話は一方的にきられてしまった。僕は腹がたって、ウーン、ウーンと呻いている妻の足元に座り、しかし為すすべもなく、煙草に火をつけた。
「そのうち収まるってさ。夜が開けたら病院に行こうネ」
「行けるかなァ。立ったら赤ちゃんが落っこちてしまうような感じなのよ」
「弱ったなァ……」
外はまだ暗かった。僕は闇の中に冷たく閉ざされた病院の玄関を想い、ふっと悲しくなった。そのとき、ふと見ると、妻の脚の間から何やら黒い固まりがはみでていた。ギョッとした。あまり激しく気張ったために、内臓が出てきてしまったのではないか!?
「ねェ、なんか出てるよ」
「えっ」と妻も驚く。触ってみると、ゴワゴワした、濡れたブラシのようなもの、──たしかに髪の毛だ。そして丸味をおびた小さな固い手ざわり。頭である。生まれてくる者の頭が、今、自分を拒否している、と言えなくもない、この世へ、何の疑いもなく、まっすぐに、グイグイと突き進んで来ているのだ。その〝生命〟を掌に感じた瞬間、僕は胆が据わってしまった。落ち着いて、また病院へ電話をかけた。
「またか」と言うような声。「だから、明日来て下さい」
「そうですか。でもネ、頭がちょっと出てるんで、立てないんじゃないかなァ」
「えーっ」
やっと本気になってくれた。少しの間、声もと切れたが、「す、すぐに、来て下さい」
「でも、どうやって?」
「車は」
「持ってません」
「じゃ、じゃあ、救急車を呼んで」
なるほど、そういう手があった。走って妻のところへ戻り、
「いま救急車、頼んだからネ」
「えー、恥ずかしいなァ」
痛がりながら照れている。しかし間に合いそうもないので、彼女の脚の間に座布団を積み、綺麗なシーツをかけて、なおも迫り出してくる頭をそっと左手で支えた。とびだしたとき、うまく受けとめてやらねばならない。できるだろうか? いや、やるしかない。掌に、以前から妻のおなかをひどく強い力で蹴っとばしていたこの子らしい、「えいっ、えいっ」というような頼もしい力が伝わってくる。さすがに胸がドキドキする。
と、ついにある瞬間、ふいに頭がスポッと出たと思うと、いきなり、滑るように全身がとびだした。予想以上に大きい。そして生命そのもののように暴れている。オットット。しかし僕は両手で上手に抱きとめた。その腕の中で!
ついさっきまで僕と妻の二人だけと思っていた室に、今はもう一人、赤ちゃんがいて、もの凄い声で泣いている。そのとてつもない存在感。妻は、先程の苦しみがウソのような顔でニコニコ笑っている。ヘソの緒をつけたままのその子を僕から受けとり、聖母のように抱いている。
間もなく救急車が到着、事情を話すと、「いったいどこの病院ですか」と、目を吊り上げた。そこへ、
「ごめん、ごめん」
産院の院長先生が走って、とびこんできた。
「ずいぶん早かったねェ」
──妻と、赤ちゃんは救急車で運ばれ、家はふたたびひっそりと静まり返った。何ごともなかったように。
でも僕は、初めての子が、この世に来たさいしょに、この手でうまく抱きとめ、迎えてあげたのだ、という、歓びでいっぱいだった。
僕は縁側に立ち、うっすらと明るくなった空を眺めて、セロ弾きのゴーシュのように、
「皆さん、ありがとう」
と、呟いた。