持田ヘルスケア株式会社

スキナベーブ エッセイコンテスト

【第1回】
~ 妊娠・出産、新しい生命の誕生に接して ~

佳作

「急いでごめんね」

【看護婦助産婦部門】 森 聖美 埼玉県  助産婦  33歳

もうすぐ、朝七時。少し前まで暗かった空も、すっかり明るくなってきました。病院の窓の外では、ちゅんちゅんと朝を喜ぶすずめのさえずりが、一段と大きくなりはじめました。
その時、外線電話が響きました。深夜〇時からの深夜勤務で、その日ははじめての電話。自然現象であるお産はいつ始まるかわからないので、二十四時間いつでも変化があった場合に連絡してもらうためにその電話はあるのです。
電話の向こうの妊婦さんは、遠慮がちに「Kです」と、名前を名乗りました。その名前で私はぴんと来ました。そのKさんは、子宮口が開きかけてしまい切迫早産で二ヵ月近く入院していました。
しかも今回は四人目のお産です。ようやく臨月になってつい二週間前に退院したばかり。当然、お産がとても早いことは簡単に予想できます。私の心の焦りを全く知らないKさんはのんびりマイペースで言います。
「目が覚めたら、おなかが結構痛いんですよ。う~んだいたい五分かな。あ、また来た、痛たた。あれさっききたばかりなのに」。
さらに、私の中で早くしないと生まれてしまうという思いが一段と強くなり、必要最低限のことだけ聞き出し、
「とにかく早く向かってください」といって、すぐお産ができるように準備にかかろうと電話を切ろうとしました。ところが「あの~」とKさん。
「母子手帳が見つからないんです。おかしいな。どこに置いたんだろう。明日検診だからいつものところにしまったと思ったのに。あれ」と私の気も知らないでの返答です。
「そんなのいいから早く来てください」と私はおそらく半分叫ぶように言ったかもしれません。でも、Kさんは納得してくれません。
「え~、でもないと困りますよね。少し探してから行きます」
「母子手帳は後でもいいから、早く病院に向かってくださいね」
「え~でも、痛たた、そうですか、なくてもいいですか」しぶしぶ承諾してくれたKさん。Kさん宅から病院まで車で約十分。
電話の中のKさんは見つからない母子手帳に気がいって、気づかない様子だったけれど、時々口にしていた「痛たた」という言葉。おそらくもう三分ぐらい、いやもう三分切っていると私は思いました。分娩室や新生児のための準備を手早く整え、後はKさんの到着を待つばかり。
受話器を置いてからすでに十分経ちました。先ほどの母子手帳問答は完全に時間のロス。嫌な予感。私は三階の病棟でKさんの到着を待てませんでした。
もしかしたら、もしかすると思い、BABYを包むためのバスタオルと臍の緒をクランプするためのクリップと臍の緒を切断するための剪刀と羊水を口で吸うための吸引器を持ち、病院の正面玄関へ走りました。
早朝の病院の玄関はとても静かです。ふと見た時計の針はもうすぐ七時二十分を指そうとしています。
その時です。見たことある男の人が玄関を入ってきます。Kさんの旦那さんです。長く入院していたので、旦那さんの顔もわかるし、また旦那さんも私のことがすぐわかった様です。
私はKさん旦那さんに駆け寄り、
「どこ?」あいさつもなしに会話というより単語のやり取りが始まりました。
「すぐそこ」とKさんの旦那さん。
「どう?」
「でた」。
その一言ですべてを把握できました。嫌な予感が的中。とても早くお産が進んでしまったようでおそれていた事態が起きていました。もしかしたら間に合わずに生まれてしまうかもの事態です。
ここで、ひるんではいけないと自分に言い聞かせながら、Kさんの車へいき玄関に横付けされた紺色のワゴン車の後部ドアを力一杯スライドさせました。
すると「おぎゃ~」と啼泣する元気な赤ちゃんの声。ワゴン車であった事が幸いし、Kさんはしっかり横たわり、座席シートの上には男のBABYが本当に玉の様に産まれていました。
車に乗り込んできた私を見てKさんは言いました。
「助けて」と、一方、赤ちゃんは突然明るくなった事がびっくりしたのか、啼泣をやめじっと私の顔を見つめてくれています。
素早く羊水を拭きとり、臍の緒をクリップ、切断して、他のナースに赤ちゃんを先に病棟へ搬送してもらいました。
「Kさん。びっくりしたでしょ。赤ちゃんしっかり啼けていて大丈夫そうだから。もう大丈夫だからね」
緊張していたKさんは震える声で、こういいました。
「少し探したんだけど母子手帳がやっぱり見つからなくて、家を出ようと靴をはいたらタンスの引き出しに入れたこと思い出して、取りに戻ったのね。そしてあったよかったと思って車に乗って病院に来る途中とても痛くなってしまって。はやくといって車飛ばしてもらったんだけど、ほらあそこの八百屋さんのカーブで息みたくなってしまったの。横になって耐えてたんだけど、病院につくと同時に出てきてしまったの」。
私はうんうんとうなづきながらKさんの言葉を聞いていました。母子手帳を片手に握りしめながら車で生むなんて、とても怖い経験です。話す事で徐々に気持ちを落ち着かせていたKさん。
さて、今度はKさんを運び出してきちんと後産の援助が必要です。私は外来当直のナースに何か体に掛け物をとお願いしました。走ってくる音がしたので振り向いて掛け物を受け取ろうとした瞬間、突然あたりが真っ暗に。
あれ、何事?さらにその後ろから声がします。
「なにやってんのよ。車にふとんかけてどうするの。中の人にかけてあげなきゃ出られないじゃない」
どうやら、あまりの緊急事態で動揺した新人ナースが車にふとんをかけてしまい、それを冷静なベテランナースが注意した模様です。それでも、病棟へ搬送し後産もおわり、親子共々無事で元気で何より皆ほっとしました。
Kさんは旦那さんにも赤ちゃんにも「急いで産んでびっくりさせてごめんね」と。それから何日かして親子で元気に退院して行きました。
その後、何回かKさん一家を近くの公園で見たことがあります。一番下の子のそのつぶらな瞳の輝きは、はじめてあった車の中の時と同じで、その度あの出来事を思い出してしまいました。あれから十年、すくすくと大きくなったあの子の瞳には、今は何が映っているでしょうか。とても気になります。

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