【第6回】~ 赤ちゃんが教えてくれた喜び ~
入選
・共に成長する喜び
【一般部門】
東京都 主婦 60歳
私の出産、子育てに関する記憶は端的に言うと「暑かった」「心細かった」「痛かった」「忙しかった」「眠たかった」そして何より「夢中だった」と言うところだろうか。
そう、もう40年近く前になる。
若さと無知は恐ろしいもので、愛媛の田舎娘が姑と姉ばかり4人の小姑付きの東京の一人息子の許へ嫁いで来た。
夫は話に相違して、毎日午前様。休みはゴルフで家で目覚めている時間はほとんど無い。勢い義母と一日中鼻を突き合わせている事になり、日に2、3回は必ずご講義を受ける。
毎日が寂しく、義母が怖く、自分の世間知らずを思い知る日々だった。
そんな時だ、妊娠がわかったのは。
それはこの世で唯一の同志を授かったようで、闇に一筋の光明が差す思いだった。この分身のためにも強く生きなくてはと言う気持ちがむくむくと湧いて来た。
長女は九月に生まれた。残暑がいつまでも厳しい年だった。
明け方病院に駆け込むと急に逆子だとわかり、まだ大分時間が掛かると聞くや夫は会社へ出かけて行った。義母が一日中側に付き添ってくれたが、正直これが里の母だったらなあと思わずにはいられなかった。
七転八倒の末、昼過ぎ医者が産道を切開して、やっと逆子を取り上げてくれた。
初対面の印象は十月も居候をさせたわりには、私の体の一部が剥がれ出たような、羽化したばかりの昆虫のような変てこな感じもしたが、そのしわしわの赤い顔と手足が明らかに私を求めてうごめいている事に突如、人の親として感動を覚えた。
退院する時になると、しわも伸び、髪の毛も何とか揃って、人類の誕生が実感できるような姿になっていた。主治医は
「これからパパとオッパイの取り合いでちゅねえ」と赤子に冗談を言って送ってくれた。
”育児は専業主婦で”の時代であったが、とにかく赤ん坊は手が掛かる。昼夜かまわず泣き叫び、乳を求め、用をたし、風呂に入りたがる。夜もおちおち眠れないからと言って義母の前で昼寝するわけにもいかず、夫は相変らず夜中に帰って来て食事をとる。
脚から生まれたせいで、股関節脱臼の気があり、毎日病院にマッサ-ジを受けに通った。待合室で同じ年の子を連れた近くのお母さんと知り合った。毎日おしゃべりを続けるうち、誰よりもわかり合える仲になり生涯の友となった。
そんな中で子の発育は目覚しかった。
私から分裂し本能だけで動いていたものが、感情を表現し自己主張するようになり、相手の喜怒哀楽を察する社会性に芽生えて人の顔色を見、やがて知性、創造性を感じさせるようになる成長の神秘は神様が下さったとしか言いようの無い喜びだ。
三年後に次女が生まれていよいよ忙しくなった。とにかく無我夢中で余計な事など考える暇は無かった。
2人が幼稚園、小学校と育つに従って、自然、家の中における私の存在感は大きくなっていく。そして今私の財産である地域のお友達は増殖していった。
下の子が1年生になった頃であろうか、義母が私に改まって言った。
「しげりさん、この十日であんたがうちに来て丸10年だね。すっかりこのうちの人に成り切ってくれて本当にご苦労さんでした」
そうだったのか、もう10年かあ。
更に10年後、彼女は私の手を握り、感謝の言葉を残して逝った。
今2人の娘は、本人達には勿体無いような伴侶に恵まれ、それぞれ幸せに暮らしている。
寂しくない事はないが、私には他の誰よりも子供達と長い時間を共有でき、一緒に成長し、幸せをもらったと言う満足感と自負がある。
だから今は夫と遠くから2人を見守りながら、日々新たな道を突き進んでいる。