【第14回】~ 赤ちゃんとの出会い ~
大賞
・サンキュー、お祖母ちゃん!
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渡邊 惠子
徳島県 主婦 55歳
あれは今から29年前の出来事だった。
当時の私は出産のために実家に里帰りしていた。
そして予定日より一週間早く陣痛が始まり、母に付き添われてかかり付けの
産婦人科に駆け込んだ。
陣痛室で横になっていると看護婦さんが来て母を外に連れ出した。
しばらくしてから母が私のところへ戻ってきて、「ちょっと急用ができたから」
と言い残して部屋を後にした。
それから私の陣痛はだんだん強くなり、明くる日の早朝に無事元気な男の子を
出産した。
廊下で待機していた主人と義父母が顔を見せてくれて、私にお祝いと労いの
言葉をかけてくれた。でも三人の間には、どこかぎこちない空気が流れていた。
「私の親はいったい何してるんだろう。初孫で娘の初産だというのに・・・」
私は無性に腹立たしくて悲しかった。
それから3時間ほど経ったろうか。ようやく父母がやってきた。
「お祖母ちゃんは?」
私の問いかけに、母は「ちょっと風邪気味で赤ちゃんに移したら困るからって」
と答えた。
でもその時の父と母の狼狽ぶりと憔悴しきった顔に、私は得体の知れぬ不安に
襲われた。
私が事実を知らされたのは、退院してからだった。
私が入院した日に祖母は道端で突然倒れ、救急車で病院に運ばれた。
脳梗塞だった。
昔からお祖母ちゃん子だった私はいてもたってもいられず、乳飲み子を抱いて
祖母の入院先に飛んで行った。
私の目の前には、変わり果てた祖母の姿があった。
右半身が麻痺して言語障害が残った祖母は、私と目が合った途端に大粒の涙を
流した。
私はそれから毎日息子を抱いて祖母のところへ通った。
十日ほど経った頃、病室で泣きじゃくる息子をあやしている私に向かって
祖母は左手で「トントン」と自分が横たわっているベッドを叩いた。
「何何? あっ、この子をお祖母ちゃんの横に寝かせるの?」
祖母は笑みを浮かべ大きく頷いた。
祖母の言葉ははっきりと聞き取れなかったけれど、何か子守唄を歌っている
ようだった。
すると息子は魔法でもかけられたかのように、祖母の隣ですやすやと眠り出した。
それ以来、祖母が亡くなる日まで息子は毎日祖母と一緒にお昼寝をした。
そして息子の成長の節目の日は、いつも祖母の病室だった。
初めて寝返りができたのも祖母のベッド。
六ヵ月を過ぎた頃には、気が付いたら祖母にもたれかかっておすわりをしていた。
それから二ヶ月後、息子を祖母の足元に座らせると、祖母の枕元を目指して突然
ハイハイを始めた。
そして祖母の顔まで近づいて目と目が合った時、息子は嬉しそうにキャッキャと
笑った。
私たち家族の願いも虚しく、祖母は倒れてから一年足らずで帰らぬ人となって
しまったけれど、その顔は眠るように安らかだった。
何もわからぬ息子は、祖母の亡骸の傍で無邪気に笑っていた。
「今日は3月9日だよ。ひいばあちゃんはきっと康弘にサンキューって言って
るんだよ」
父がふと呟いた。
誰がお見舞いに来てくれても無表情だった祖母が、私の息子の顔を見た途端に
枯れた花がみるみる返り咲くかのように表情が明るくなっていった。
そして寝たっきりで喋ることもままならない状況の中で、命が消える瞬間まで
私の息子に精一杯の愛情を注いでくれたお祖母ちゃん。
「こちらこそサンキュー」
私は祖母に心から手を合わせた。